社会は情報化の夢を見る

 
情報技術が社会を変える、という単純な技術決定論に陥っている情報化社会論に対し、ちょっとまて違うだろと突っ込みを入れている本。
 
マーシャル・マクルーハンの、メディアの変化が個人や社会のあり方を変えたという主張にも、同様に突っ込んでいる。
 
結論としては、技術が社会を変化させているのではなく、社会が変化していく際に都合の良い技術が選択されそれを取り込むことによって社会が望む方向に進んで行くということ。
「情報化社会」とは、結局のところ、技術予測の名を借りた未来社会への願望に他ならない。情報化社会はここ50年間、そうした願望を語り続けている。
 
社会の変化に関して重要なのは、技術ではなく、社会が何を求めているのかである。
そのため、本の中では、社会のあり方やそれを構成する個人とは何かについて考察される。その中で、興味深かったのが、「コンピュータは人間になりうるか」という問題は「社会が、そのコンピュータの行動の責任をそのコンピュータに認めることを受け入れるか」ということであるという考え方だ。人間の定義は、その時の社会の認識によって決められるものであり、技術の問題ではない。なぜなら、現代において「人間」とは「個人」として人権が認められ、それに伴って「個人」として責任を負わされる存在であるからである。

また、同じ技術でも利用の仕方が違うという議論の際、アメリカと日本の会社の違いについても解説されており、これもまた目から鱗だった。
アメリカ型と日本型ではそもそも「何が良い決定か」の考え方が違う。アメリカ型の決定プロセスは、客観的にみて最も正しい決定を選び出そうとする。一方、日本型の決定プロセスは一人一人の心理をより重視する。どんな決定にせよ、最終的には全員が「納得」して意見を一致させることをめざす。
たしかに、実際会社で働いていると、全員の意見が一致しないとプロジェクトが進まず、必ず妥協させることあるいはすることが必要になる(個人的には、これは時間の無駄が発生し易いし、妥協させられた上で責任の一端を背負わされる点が理不尽だと感じている)。アメリカの場合は、メンバーがそれぞれ主張を行った後は、あらかじめ決められている責任者がその主張を元に自分の責任の元に決断を下す。全てのメンバーが納得する必要はない。どちらにもメリットデメリットはあるが、とりあえず前者の決定プロセスには個人的にうんざりしている。
  
 
 
 
まぁ結局、「すごい技術があるから社会がこう変わる」みたいなのは、間違っているということ。
 
新しい技術やサービスで社会を自分の趣味の世界に導いていきたい、社会はこうあるべきだと主張したいと考えている自分にとっては、必読の1冊だったと思う。社会が何を求め、どうなっていくのか、を技術とは一旦切り離して考える必要はあると思う。その上で、技術の使われ方を予測し、虚構と知りながら技術が社会を変えるという夢を見つつ、必要なものを提供していけたらいいなと思う。