第2章 単語の鎖と言語の木

1章に引き続き、死馬に鞭を打ち続けるという内容。

対象を分解してその断片をネズミの行動に例える行動主義。これの明らかな失態を示す為に、背後に心的な事象が存在する言語という複雑な現象を例にとる(言語が、階層性を説明するのに適しているという理由もある)。

  • 行動主義の立場:会話をするとか、詩を学ぶとかいう日常生活で起る複雑な活動も、結局は単純な反応が一つの系列(連鎖)をなしたものにすぎない。その単純な反応とは、レスポンダントとオペラントの条件づけのこと。
  • レスポンダント条件づけとは:「学習の一形態であり、刺激の対呈示によって刺激間に連合が起こり反応が変容すること」(Wikipediaより)パブロフの犬でいうと、エサと鈴が「刺激」で、その「連合」によって、よだれの「反応」の対象が、エサ→鈴、とすり替わるのが「変容」といっている。
  • オペラント条件付けとは:「学習の一種で、オペラント行動(その行動によって刺激の頻度が変化するような行動のなかで、自発的なもの。エサは含まれない)が自発された直後の環境の変化に応じて、その後の自発頻度が変化する学習をいう」(一部Wikipediaより)


そうではなく、言語という現象を理解しようとする上で、論ずるべきなのは、「思考がいかにして言語の中に配分されてくるのか、観念という無形の岩がいかにして巧みに切り分けられて明確な形の結晶断片となり、動くベルトにのせられて、時間という単一の次元にそって左から右へ運ばれていくようになるのか」である。

  • ケストラーは、上述の線形の連鎖構造を、多段階の階層的に配列されたシステムで置き換えることを提案。

たしかに、目は三次元の図式全体をとらえる事が出来るのに対して、耳は一つのパルスを1次元時間軸の中で線形に受け取るだけである。しかし、耳から入った情報を言語として理解する際には、頭の中でいくらでも時間的な系列〜空間的な系列の変換をしている。そして、この作業には多段階の階層性があると考えられる。音→単語の意味→句→文、という各段階の階層を登ったり降りたりして、人が何を言っているのか初めて理解出来るのだ(ex.[話の音を聞き、そこで文の繋がりが読み取れなければ、話したはずの各単語すら認識が出来ない]とか)。

  • その一方で、言語の現象を完全に理解することは、おそらく不可能に近いとも言っている。

それは「言語を生み出す作業は、言語によって表現されえないプロセスを含んでいるから」らしい。まぁ、理解するとは言葉で説明をするということだから、自己言及になってある種のパラドックスを生み出してしまうのだろう。(関係ないけど、同じアナロジーから、人間の脳の働きを人間が完全に理解することもやはり不可能なのだろうか…でも、そんなこといったら、物理学や数学にも限界があって、それは既に認識されていることだよな。)ここら辺のことは、本文にも引用してあるカール・ポパー卿の言葉。
「絶対に確実で、明示しうる知識すなわちエピステーメーという古い科学の理想は、偶像にすぎないことが判明している。科学的客観性が要求される結果、すべての科学的記述はどうしても永遠に暫定的なものにとどまる他はないことになる。ある記述は新しい事実によって確証されるかもしれないが、どの確証も他の記述に関係をもっており、しかもそれらすべてがまた暫定的なものなのである。」
当たり前のことなんだけどね。

  • 完全に理解するのはムリである。その上で、「材料の組み立て」なる問題。

段階的階層性と言ってみたところで、「何かをいおうという意図」から「ロゴスが肉体化される」までの複雑なプロセスは絶えず変化する動的なものである。それには、各階層どうしの繋がりの不規則な成長と、レベルの間にみられるたえざる振動を持ち込まなければならない。
また、我々が想像している語り手は、各レベルおける固定的な規則に支配されながら、この規則にフィードバックによる可変的な戦略の余地が残されているという。これは端的に言えば行動に付与する規範と動機であり、階層性の有機的な繋がりの一例になる。まず、あるレベルの規範はそれより高い階層レベルにおいて決定され、それに付随する不確定性は周辺では拡大していく。こうやって「自由」が生まれるが、この曖昧さは一段上のレベルに照らしてみなくては解決されないのだ。




言語に限らず、世界には、段階的階層性をもつ構造が多く見られることだなあ。


機械の中の幽霊 (ちくま学芸文庫)

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