第6章 忘れるための記憶

機械の中の幽霊 (ちくま学芸文庫)

機械の中の幽霊 (ちくま学芸文庫)


記憶と想起のメカニズムについて


われわれが自分の人生の歴史について思い出しうるもの、またその過程で獲得してきたものの大部分は、時間が経つにつれてどんどん輪郭に、最初の体験の圧縮されたアブストラクトに還元されていく。
アブストラクト」は以下の2つの意味を持つ。

    • 個々の事例ではなくてある一般的な概念を示す意味においての、「具体的」の対語
    • 物事の要点を要約あるいは圧縮したもの

記憶はこの両者の意味でアブストラクト的なのである。

とりこまれた知覚が意識に達する際には、知覚の階層性の各関門で、分析され、分類され、その階層において不必要だと判断された情報はすべて切り落とされる。例えば、文字について、それが誰の書いた文字であっても(ある程度の特徴が保たれていれば)印刷された文字であっても、同一の文字として認識されるのは、認識する際に、走査のプロセスがあらゆるディティールを無関係なものとして無視し、その文字のその文字たるところ(トポロジカルな性質など)だけを、高次の司令部へ送るべきものとして残すからである。


そして、意識された事象の地位にまで到達したものが、さらに恒久的な記憶の地位に上り詰めるにはさらなる厳重な切り落としを受けることになる。

「前々週の自分の行動をこまかく時間を追って記録しようとしてみれば、誰しもこの崩壊の早さともはや完全に失われたディティールの多さを知って、驚き悲しむに違いない。」


しかし、体験の貧困化はさけられない。なぜならば、アブストラクト、一般化のプロセスはその定義からしても、個別的なものを犠牲にすることを意味している。そしてこのアブストラクトがなければ、過去の記憶というものは個別的体験の集積に過ぎず、先の文字の例でいうならば、誰々がどこどこに書いた「個々の「あ」」という「何本かの曲線でできた形」の集まりからは何の意味も見出すことが出来ないだろう。



一方で、この体験の不可避的貧困化に対する以下の補償が存在する。

    • 走査のプロセスは、体験と学習によって高度に洗練されうる。訓練によって、元の走査機構に、よりデリケートな走査機構を重ねあわせることができるのである。
    • 記憶を、五感のそれぞれの階層性を相互に絡み合わせることによって、より鮮やかなものにすることができ、これによって体験の想起が可能となる。ある階層では切り捨てられた情報も、違う階層では生き残っているかもしれないのだ。(この説を支持するものとして、著者が行った何桁かの数字の記憶の実験が紹介されていた。これの結果は、「各桁の個々の数字」と、「その順番」の知覚の階層が別々だったことを示しているらしい。)

人間の体験の想起に、常に意味が付随しているとはかぎらない。何の脈絡もないところに、断片的かつ幻覚的で生き生きとした記憶が保持されていることがある(これを絵巻物的記憶といっている)。よって、ある体験を保存する価値があるかどうかを決める有用基準には、情動的有用性も含めねばならない。
「この情緒的な反応もまたいくつかのレベルから成る階層性を含むことは、多くの証拠が示している。」らしい。
そして、絵巻物的記憶は、一般化と図式化のアブストラクト的記憶に対して個別化と具体化であり、情報の蓄え方としてはずっと原始的なやり方なのである。


アブストラクトの結果イメージされたものは、悪く言えばほとんどが思い込みである。

とくに、「われわれは視覚的図式に対して、いろいろな、しばしば混乱した用語を使う。混乱しているのは、視覚的構成というものが、本来容易に言語的な言葉に翻訳されえないものだからである。」

そして、その視覚的構成によって人間は認知、判断することができる。
「ある人物をみわけるということは、網膜にうつったその人の像が、記憶倉庫の中にあるその人の写真的類似性を含むスライドと一致することを意味するものではない。それは入力からある基本的構造を抽出する走査機構の階層性に、入力をさらすことである。」

しかし、大多数の民衆にとって、想起とは彼らが信じているよりもはるかに絵画的性質の薄いものである。つまり、想起したと思っている内容のほとんどはアブストラクトから逆に想像によって肉付けされたものである可能性が高い。
「われわれはわれわれの心像の正確さを過大評価しすぎている。それはわれわれがわれわれの言語的思考の正確さを過大評価しているのと同じことである。」
この正確さの過大評価は、記憶が常につくりかえられ、再評価されているのにもかかわらず、そのことに対してはいたずらなまでに無自覚であることからきている。「われわれはつねに、ルールを知ることなくゲームをしているのである。」


  • まる暗記

といっても、これにも階層的序列は存在する。この場合、記憶された事項は単一の基本的ビットではなく、もっと大きなパターンを作るようなホロンである。語呂合わせのようなものだともいえる。まる暗記も、そこになんらかの関連性を見出して記憶するわけだけど、この関連性を得るためには、何度も繰り返すことによる一定量の「押しこみ」が不可欠であることが多い(パブロフの犬とか、ソーントンのネコ、スキンナーのハトも)。
「これらの動物はみな、自分がもともとその素養をもっていないため「押しこみ」によってしか学びえないものを学習するという課題を与えられているのだ。このような行為が人間の学習の規範であると称したのは、地球平面観的心理学のグロテスクな錯誤の一つであった。」まさしく!!

学習における洞察と理解とは程度の問題で、真の洞察を持っていれば完全に試行錯誤を排することができるというのもちょっと行き過ぎである。洞察とは、インプットを様々な側面から多次元的に分析するものであり、無用な雑音から有用なメッセージを抽出し、モザイクの中のパターンを認知して、それがいわば意味で飽和されるようにすることである。